みやわきろく

思考のsandbox

孤独ととことん向き合ってみる

 5月末に家族と口論になってから数日。家にほぼ寄り付かず父親からの電話にも出ず、ただひたすら自分の過去や内面と向き合っていた。
「口論になったままひとことも口を利かない」と書いてみると、まるでわたしが拗ねているだけのようにも見えてしまうが実際はそうではない。結局のところ何も話を聞いてくれようとしない、という点にただ失望して、話す気をすっかりうしなってしまったというだけのことだ。

 相手が家族だろうが恋人だろうが親友だろうが、他人と話すということはそれなりにエネルギーを消費する行為だと思っている。相手にあわせた話題を選び、構成を考え、相手の話に耳を傾け、タイミングよく受け答えをする。わたしたちはこれらを無意識のうちに行っている。話す間に頭の中が整理されたり、楽しみが得られたり、癒やしてもらえたりという、エネルギー消費を上回るほどのメリットが得られるのであればいいが、そもそも「話を聞こうとしない」「何を話しても向こうのペースに持っていかれる」ようなことがあれば、それは話そうとするエネルギーの無駄遣いではないか。
 人間のリソースには限りがある。話すことがエネルギーの無駄遣いならば、その分を他に割り当てたい。それだけのことだった。


 実家を出るまでの数日間、わたしは家にいたはずの時間の大半を図書館か、あるいはシーシャ屋で過ごした。どちらも、各種リソースを無駄遣いせずに自分と向き合うのにはもってこいの場所だった。シーシャ屋にはだいたい無料Wi-Fiと電源があり、今は図書館でもパソコン利用者用の席が用意されていることが多い。
 図書館にしてもシーシャ屋にしても、隣に人はいるものの互いに干渉することはない。家族という、生まれた頃から馴染んでいたはずのコミュニティにすっかり疲れ切ってしまったわたしにとって、その絶妙な距離感がなんともありがたかった。わたしはその絶妙な距離感の中で、自分の内面とひたすら向き合う日々を送った。


 今回降って湧いてしまった「孤独」により、わたしはこれまであえて振り返らないようにしていた過去にあえて目を向けることにした。これまでなぜ振り返らなかったか。嫌だったことから目をそらし、楽しいことしか考えたくなかったからだ。
 しかし、ここ1〜2年の間に起きた自己のトラブル、身体表現性障害、不眠、アルコール依存、などの原因を探るうち、これらの根源は同じところにあり、また思っていた以上に根深いものなのではないか?という疑問にたどり着いた。これまで少しずつ積み重なってきた人生の歪みが、今の自分に影響を与えているのではないか。

 振り返れば小学生の頃からずっと「生きづらさ」を抱え続けてきた。理不尽ないじめにも遭い、学生時代の友人はもはやひとりしかおらず、学生らしい恋愛もしないまま社会人になってしまった。「どうしていつもうまくいかないんだろう」そんなぼんやりとした疑問を抱えたまま、その疑問を解消する気にもなれず気持ちに蓋をして生きた結果、10年以上も経ってから心身の不調として現れてしまったということなのだろう。
 その「生きづらさ」の根源についての話はまたもう少しまとまったら記事にしたいと思う。


 きっかけは些細なことであったし、もちろん自分としては「こんなはずじゃなかった」のだが、それでもこの「孤独」をきっかけに「うまく生きるためのヒント」を掴めたような気がしている。誰かと一緒にいること、楽しく話をすることのすべてを否定するわけではない。誰かと一緒にいて、心の安定が保たれるというのであればもちろんその方がいい。
 しかし真剣に自分と向き合ってみようとするのであれば、家族にしろ恋人にしろ他人はその邪魔になる。「孤独」の中に「自分」を見つけ、「自分」と対話する。人生に行き詰まったような感覚を覚えたときには、積極的に「孤独」を選択してみるというのも何かの助けになるのかもしれない。そう思った。


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